悩みの数が多い。
悩みに悩んで、悩みぬいて…。
一つの悩みが薄れてきたと思いきや、また一つ新しい悩みがやってくる。
厄日とはいうが、「厄日」で終わるのならば1日ってことだ。
いやはや、短いよね。
しかし、自分の場合は厄日が続いていく。
これって、どういう事だ?
ふと「悩み」に関して、よく分析してみた。
まず「悩み」による物理的な力は何もない、ぶっちゃけゼロだ。
もちろん、悩みの原因たる現実が未来に予測されるから悩むわけだが、悩みと現実は実は別物だと考えられる。
悩むと「悩みによるダメージ」と「現実によるダメージ」の2つを受けることになる。
「現実によるダメージ」は実際のダメージだが、悩みというのは気の持ちようで消せるんだなこれが。
そもそも悩んだところで、現実を動かせるわけでもないし、自身の気が病むだけだ。
気が病むということは、体にも影響をきたすということだ。病は気からとはよく言ったものである。
まず一つ、悩んでも自ら自分の身を傷つけているだけ。
そして、さらに予測される嫌な現実が百パーセント絶対なものだと、なぜか悩みが少ない。
もう少し考えると予測される嫌な現実が五十パーセント、つまり半々だと悩みが強い。
まったく人間は不可解な生き物だよ、どう考えても百パーセントの方が現実的なダメージが大きいのに、五十パーセントとかだと悩みがうんと強くなってしまう。
この部分が悩みという厄介な生き物の習性だ。
「どうなるか分からない」が悩みという毒性であり、現実に対しての解決策が曖昧かつ無理な可能性があるので五十パーセントとなる。
まだ分からないということは、突破口があるということだ。しかも百パーセントと五十パーセントの現実も上手く逆利用をして役に立つものにする方法もあるはずだ。
突破口や逆利用の方法を考えもせずに、五十パーセントの現実に勝手に悩んでしまうのは何でだろう?